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ニュース 各部門の活動 2021年度

私はアルゴリズムではない ―カフカの小説Der Prozessを日本語映画『審判』に翻案する―

主  催:
外国語学部
講  師:
John Williams 教授(外国語学部英語学科)
日  時:
2021年6月15日
実施方法:
オンライン
参加者数:
18名

概要

 第3回ランチタイムフリートークとして、講師からテーマに関する講演が行われた後、参加者間でのフリートークが実施された。講演概要は以下の通り。

カフカと現代日本に共通する不条理

 発表者が2018年に制作した『審判』は、カフカの同名の小説をベースにした、現代日本が舞台の映画である。この映画の出発点にあるのは、現代日本における政治的コメンタリーとしてカフカの小説を翻案できないかという考えであり、これはもともと発表者がとくに3.11以後の日本を取り巻く様々な政治的問題を通じて、現代の日本では自由が制限されているという感覚を以前にも増してより強く覚えるようになったことにきっかけがあるという。こうした現代日本において感じられる自由の抑圧・不条理は、原作者であるカフカ自身が抱いていた不条理とも共通するものがあり、この不条理の背後には「自由とは何か?」という彼の小説を貫通している根本的な問いが潜んでいると発表者は考える。このような「自由とは何か?」という哲学的な問いを映画という媒体で扱うことができるのかという仮説的な試みが本映画の特色である。

ウェルズ版『審判』との違い

 こうした本映画の特色は、オーソン・ウェルズ監督の『審判』(1963)と比較することでより明確になる。ウェルズの『審判』は、当時の米ロ冷戦や赤狩りなどの時代状況への風刺を、様々なメタファーを用いながらフィルム・ノワール的な手法でシュールに表現していた。発表者も当初はこの路線で映画を作成するつもりだったが、しだいに現代日本をありのまま描くことへと軸足がシフトしていったという。それは日常生活の根底に流れている日本の不条理をそのまま映像化する方がカフカの悪夢的な世界観により相応しく、また現代日本の政治的な問題に対するコメントになり得ると考えるようになったからである。この目論見どおり、本映画を見た観客の多くからは「まさに今の日本の不条理が描かれていて、とても不安になった」という反応が返ってきたという。

現代の映像文化におけるアルゴリズムの問題

 だがその一方で、本映画を「理解できなかった」という反応を示す観客も同じくらい多かったという。発表者はこの理由を、現代の映像文化・環境(例えばNetflixやAmazon)が同じストーリー・パターン・答えを繰り返すというアルゴリズムに支配されており、われわれを思考停止にさせていることにあるのではないかと分析している。映像表現の様々な可能性が萎縮することは、われわれの思考力や想像力が弱体化し、ひいては政治に対する疑問の声を上げなくなることにも繋がる。したがって、多様性のある映像文化を守らなければ民主主義そのものが危うくなるだろうと発表者は警鐘を鳴らす。

映画という媒体の表現可能性の限界

 発表者は「自由とは何か?」というカフカの小説のテーマである問いを映画で表現するという試みに一面では失敗したと思うところがあるという。それはタイで開催されたカフカの映画祭で寺山修司監督の『審判』(1975)を観たときに強く感じたことである。寺山の『審判』では、映画の終盤にスクリーンが真っ白くなり、観客がそのスクリーンに自ら金槌で釘を打ち込むというパフォーマンスに参画することで作品が完結する(「出る杭(釘)は打たれる」The nail that sticks out gets hammered down.を連想させる演出)。このように、カフカの作品は単に映像だけでは表現し切れない要素を含んでおり、今回の映像化を通じて改めてカフカの作品の奥深さが明らかになった。

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