ニュース FD委員会の活動 2024年度
講演会「グローバル化とニッポンのダイガク:その前提を問い直す」
タイトル:講演会「グローバル化とニッポンのダイガク:その前提を問い直す」
日時: 2025年 3月 25日(火)13:30~15:00
場所:2-1701会議室
講師:苅谷 剛彦 特任教授(上智大学)
参加者:92名(教員:42名、職員:50名)
主 催:基盤教育センター
共催:FD委員会
内容:
本学におけるグローバル化の取り組みは、SGU構想による10年を経て、特にキャンパスの多様性強化、世界のパートナー機関との連携枠組み確保など、一定の成果の成果を挙げた。一方で、国際性・グローバルを謳う国内他大学の取り組みも進む中、「上智=グローバル」というこれまでのブランディングや卓越性は揺らいでおり、総じて、教育・研究・志願者確保等に対する長期的にビジョンの作成・実施が急務である。2024年度秋学期より本学に着任された苅谷剛彦特任教授は長年にわたり英国・オックスフォード大学で教鞭をとられたほか、東京大学やノースウェスタン大学(米国)でも教育・研究に取り組まれてきた。オックスフォード大学や東京大学での経験に基づく、教授法などへの深い見識をお持ちのほか、これまでの国際的キャリアを通じて、日本の高等教育におけるグローバル化についても、政策および大学における現場実践の両方において、クリティカルに分析し、その特異性において警鐘を鳴らされている。そこで当講演会は、SGU後の本学におけるグローバル化への継続的取組に対し、示唆をいただく機会としたい。ただし、本学単体に焦点を当てた講演ではなく、日本の高等教育政策や大学におけるこれまでの前提、およびグローバルな視点から見た日本の大学全体の特異性(「ガラパゴス化」)などを改めて検証し、それに基づいて教員・職員の別を問わず、本学構成員一人ひとりが本学の方向性を自分事として考え始めるきっかけとすることを狙いとした。講演は主に3つのパートで進められた。
まず初めに、Universityはどのようにダイガクになったのか、翻訳語によるニッポンの高等教育の急速な日本語化と普及、翻訳本・「翻訳学問」の隆盛、等とタイトルをつけてダイガクと日本の翻訳文化について説明された。日本では国家のための大学として帝国大学が誕生したように、先に近代国家が誕生し、後から必要な学問を教えるために近代大学がつくられた。一方、オックスフォード大学は近代国家に先立ち設立され、近代国家をつくった人々の人材育成も行われており、いわば国家からも独立した存在であった。この頃の大学は、西欧先進国からの知識・技術の導入のための機関としての特色が強く、授業は英語が主であり日本語での卒業論文が許されず、翻訳の必要性があったことも報告された。天野郁夫氏の研究によれば、明治10年代後半になると東京大学の教授陣は急速に「日本化」され、教授=学習言語も次第に日本語に置き換えられた。大学のみならず後に私立大学となる私立専門大学でも日本語による教科書の出版や講義が行われたことで、高等教育の機会は急速に拡大したという。翻訳学問が隆盛していく一方で課題も生じた。課題の一つとして、西欧の知識文化を日本語で(安易・安価に)読める時代になると、翻訳語のフィルターの存在を忘れた日本の大学をどう考えるのかということが取り上げられた。翻訳語でできたニッポンの大学は、翻訳語を通じて「知識の社会的在庫」をつくり出し、それを再生産してきたため、翻訳語の定着を通じて、元の概念や理論とのズレや曖昧さをも全く問題にしなくなってしまった。つまり、日本語での教育の容易さと外国語の必要性の低下という2つの要因がグローバル化対応の困難を招いたと報告された。
次に、グローバル化とは何かについて説明された。「グローバル人材」は当初企業で用いられていた言葉であったが、円高等経済の国際化に対応する学生を求める企業側のニーズがあり教育界へ侵入した。大学教育への本格的な侵入は2012年に福井大学がグローバル人材育成の事業の拠点として選ばれたことであり、2014年にはスーパーグローバル大学創成支援事業が開始した。グローバル化が進展する中で、グローバル人材を大学でも育てる動きが進むと、スーパーグローバル大学に選ばれるために各大学は次にあげる要素を持った学生の育成を目指した。1:語学力・コミュニケーション能力 2:主体性・積極性・チャレンジ精神・協調性・柔軟性・責任感・使命感 3:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー。日本で「グローバル人材」の育成が問われる理由については6点説明された。1:1990年代のグローバル化と円高基調による日本企業の海外進出 2:2000年代の経済の停滞の原因とされること 3:問題の「教育」(≒未来の課題)への転化(容易な政治的解決法) 4:「欠如理論」により日本にはグローバル人材が欠如してきたという前提で認識されていること 5:英語コンプレックス(グローバル化≒英語化) 6:国内のグローバル化の顕在化。
最後に、授業に関連する授業外の学修時間を日米の大学一年生で比較した結果などをもとに、いかに日本の大学生が学んでいないかということについて説明された。また、別のデータによると、日本では学生が自分で調べて発表する演習形式の授業は人気がなく、教員が知識・技術を教える講義形式の授業が多いほうが良いという学生の意見が大多数であった。日本の大学の教育観として「単位を楽に取れる授業」「学習方法は授業で指導」が増加し、この結果からみると、アクティブラーニング等と言いつつも、学生は未だに単位が取りやすく、先生が教えてくれる授業を好んでいると報告された。
これまでの報告を踏まえて、「グローバルな、そして日本の課題への日本の大学の貢献は可能か」「グローバル化対応の課題」という2点について助言があった。
前者について、(高度な)「質」を問わない大学での教育をグローバルな文脈に位置づけなおすことが提案された。具体的には、授業の時間でしか学ばず、argumentsのできない大学生の問題とそれを放置してきた大学の問題について問い直すことである。また、スーパーグローバル創生事業と「大学ファンド」による「国際卓越研究大学」政策の試みについて、利潤を上げる大学への国家の支援は「役に立つ」理工系重視の継続等、経済成長主義から抜け出せないのではないかという指摘があった。後者の「グローバル化対応の課題」については、「大学ランキングという外部の参照点からの質の転換という内部の参照点への移行の必要性」が提案された。日本の大学はどういった大学だったのかをしっかりと理解した上で、学びのグローバル・スタンダードをどのように日本の文脈に位置づけ生かすか、グローバルに魅力的な大学となるための「知」へのリスペクトをどう回復するのか、リスペクトの対象となる「知」というものをもう一度考え直すことが必要ではないかとまとめられた。
以上